2018年3月29日木曜日

小僧の神様



"とうていそれは人間業ではないと考えた。
神様かも知れない。それでなければ仙人だ。
もしかしたらお稲荷様かもしれない、と考えた。"

  志賀直哉『小僧の神様』より 







塾に通う子供だった。

中学受験を控えた小学生だ。

とにかく勉強が嫌いで、
成績は惨たんたるものであったが、
友達と電車に乗って通う塾生活自体は楽しかった。

学習塾が小歓楽街にあったこともあり、
少ないこずかいを工夫しての買い食いも楽しみのひとつ。

パン、たこ焼き、団子に鉄火巻き、
その他いろいろ開拓しながら歩いたものだ。

また、ハンバーガーや牛丼などの
悪癖を得たのもその頃の話し。

たしか1日の予算は400円か500円くらいだったろう。

キャバレーやスナックの看板がかかる横丁を、
小銭 握りしめて回遊するのは、小学生にとってはたまらない日常的探険だった。

焼きとり屋台でひと串だけ買って食べ歩く、
そこから垣間見る大人の世界はくすぶりながらもきらびやか。
少し背伸びしている感覚も心地いい。

そんなある日、僕らの興味は駅構内の立ち食い蕎麦へと俄かに向いた。

予算的にも頃合であるし、
やはり大人の世界への憧れもある。

何と言っても立ち食い蕎麦は、大人の嗜みだ。

おそるおそる暖簾をくぐると、
アルバイトだったのだろう、
待ち構えていた店員は当時20代とおぼしき気のいい兄ちゃんだった。

まるで社会科見学の僕らを面白がってくれ、
かけ蕎麦しか頼めない僕ら一人ひとりに、生卵のトッピングをサービスしてくれた。

右手に持った卵を丼の縁に叩きつけ、
そのまま中身を蕎麦の上に落とし入れていく。

左手は使わない。
全ての動作が片手で、しかも次々と迅速に行われるのだ。
目を見張った僕らは、揃って歓声を上げたものだ。


あまりの鮮烈な印象に、瞬く間に僕は月見蕎麦の虜となった。
家でも月見をリクエストするようになり、
また中学に上がり、学生食堂を利用するようになると、
しきりに月見蕎麦ばかりを注文する。

外食で月見蕎麦を頼むことはなくなった今でも
家で蕎麦を食べる際には、たまに生卵を割り落としてしまう。

その立ち食い店には結局 数えるほどしか通わなかっただろう。
小学生の興味はすぐ他所に移ってしまうのだ。
けれども僕の月見愛好が続くのは前述のとおり。

駅構内、ホームの立ち食い蕎麦屋、
あれが僕にとって、卵の片手割りとの初邂逅だった。

その後、飲食の道に進んだ僕は
自らも片手で卵を割る機会に恵まれるが、
その度、思い出すのはあの兄ちゃんのことだ。

ホテルで働いた時分など、それこそ一日のうちに
数え切れないほどの卵を割ったものだ。
それでもやっぱり、
彼のように手際よく出来ている気がしない。

顔も憶えていない。
けれども今でも彼が、僕にとっての卵割りの師であり、
そして神さまでもある。

パスタのつなぎ、チーズケーキ。
またマヨネーズも作り出そう。
明日も卵を割るだろう。


兄ちゃん、どうか見守っていてほしい。






2018年3月25日日曜日

閑かと静か


お閑かに…

恐れながら、メニュー表 冒頭にはそう記してあります。

いきなり閑かにしろだなんて…
少し気分を害される方もいらっしゃるかもしれません。

悪しからず。

けれども同じ「しずか」でも
閑かと、静かでは少しだけ意味が変わります。

単に音のひそやかさだけでなく、
落ち着いて、ゆったりしているさまも閑の字には含まれます。

長閑と書いて、のどかと読みますしね。



皆さん、どうぞごゆっくりとお過ごし下さい。
どうぞのんびりとお憩いください。

ヒマダコーヒーはあなたの暇で閑かな時間を応援します。




あ、お静かなのもお忘れなきよう。

店内では少し声を潜めて。お喋りは息継ぎしながら。

ゆたかな閑かは静けさからですよ!


 


・・・・・


 沈黙は言葉なくしても存在し得る。

しかし、沈黙なくして言葉は存在し得ない。
もしも言葉に沈黙の背景がなければ、
言葉は深さを失ってしまうだろう。

マックス・ピカート『沈黙の世界』より















2018年3月23日金曜日

太陽を汲み尽くせ




ものを買うことは
喜びであると同時に、
課せられた呪いでもある。

僕らは消費社会のくびきの下で
祝福され、また呪詛されながら暮らしている。

かつてジョルジュ・バタイユは
人間の経済活動の本質を蕩尽と捉え、
無限に降り注ぐ太陽光を汲み尽くすことこそが
究極の目的であるとした。

太陽エネルギーは汲んでも尽きぬから
ただ汲み続けるしか手立てがない。

彼はその論文に“呪われた部分”と名を付けた。

僕の無駄遣いの本源が
そのように大仰なものかは分からぬが、

いつもの懐具合との葛藤が、
太陽との格闘だったのだとすれば少しは気分がいい。

どのような形であれ、
常に太陽を感じていられるからだ。

ちょっと街まで太陽を汲みに。
そう言い換えれば、少しは買い物の罪深さも免れるかしらんが、

何はともあれこの社会、消費なくしては生きていけない。
人が太陽なくして生きられないのと同様に。

まだ暫く、この呪いが解けることはないだろう。
それならばせめて優しくて気持ちのいい消費をしたいと思う。

商売をする身として、

お客さまにそう思って代金をお支払い頂ければ、また光栄である。


さて、春の陽ざしが気持ちいい日々は同時に、
確定申告を終えて安心と猛省の日々でもある。

ブログの内容も経済のことになるというもの。


最後に詩人・山之口貘の言葉を添えて、
僕の自己紹介としておこう。


僕ですか?
これはまことに自惚れるようですが
びんぼうなのであります

2018年3月22日木曜日

ヒマラヤコーヒー



店先を通り過ぎるお嬢ちゃんの会話

 

アルファベットで綴られた当店の屋号を見て

ヒマラヤコーヒー?

ナイス読み間違い。

店主けっこう山好きですので
悪い気はしません。


ヒマラヤとは言わずとも、
山でいただく食事はおいしく、
また山で飲むコーヒーは味わい深いものです。

山にまつわる随筆で知られる辻まことは
ヒマラヤの本でも出すのかと問われ、

「なに、ヒマラヤじゃなくウラヤマだよ」と応えたそうです。

飄々としてますね。

ヒマラヤのように険峻で美しく、
ウラヤマのように呑気で和む、
そんな喫茶店になれたらいいなと思いました。



写真はE・ヒラリーとN・テンジン
人類初のエベレスト登頂を果たした二人。



ヒマダコーヒーは海の近くの山小屋です。





2018年3月19日月曜日

読書の悦びに劣らずと




喫茶店の主人は黒子のように、
空気のように、

存在を潜めて
お客さまのくつろぎの邪魔をしてはなりません。

あまり干渉することもなく、
プライベートな質問など必要以上に
お客さまにしないのがマナーです。

近すぎず、とは言えあまりに遠のくこともなく、
程よい距離感を呈示できるのが
良い喫茶店の条件かなと思います。

さて、そんな信条とはうらはらに、
不肖ヒマダコーヒーの主人には、
よくない癖がひとつあります。

それは、読書中のお客さまの
読まれている本が気になって仕方がないことです。

読んでいる本のタイトルや内容を、
知られたくない方もたくさんいらっしゃるでしょう。

それは承知しているつもりですので、
極力お伺いしないようにはしているのですが、

実は「何を読んでいるのですか?」と聞きたくて
もじもじしていることが、よくあります。

  また主人のデリカシーない質問により、
  ご不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、
  この場を借りてお詫び申し上げます。

ヒマダ主人も浅学ながらも本好きの端くれ。
あわよくば本トークがしたいのです。

読書中のお客さま、お気をつけ下さい。
狙われていますよ。

そしてもし、殊勝にも少しお喋りして良いという方がいらっしゃいましたら、
どうぞお手元の本のことをお教えください。


読書の悦びに劣らず、
お客さまと静かに語らうやりとりもまた、
喫茶店主人の恭悦のひとつでございます。










2018年3月17日土曜日

悔しくてハンカチを噛むオジさん



周囲への配慮に欠けたお喋りには
“お静かに”と促すこともある。

でも本当は言いたくない。

口頭での注意は野暮だし、
受けた方だっていい気分じゃないだろう。

黙らせることが目当てじゃない。
目的は皆が気持ちよく過ごせることなのだ。

ではどのようにしてメッセージを届けよう。

注意された方も、思わず笑顔になるような、
そんな注意をだ。

イラストなどはどうだろう。
描いた絵をメッセージカードにして手渡せば如何だろうか?



























: 悔しくてハンカチを噛むオジさん。



Shhh…と口もとに当てた人差し指を描きたかったのだが

これではまるでハンカチを噛んでいるようだ。


人をいさめる手段を探す前に、まずは画力を鍛えよう。

2018年3月14日水曜日

お野菜の販売のお知らせ





明朝(15日)9時頃より
ヒマダコーヒー店頭にて
恒例の無農薬お野菜の
無人販売があります。

店舗は定休となりますが、
宜しければご利用ください。

長ねぎ、わけぎ、菜の花、
おろ抜き大根などが並びます。

特にお勧めは菜の花。

春の味覚をお楽しみ下さい。


2018年3月13日火曜日

蒸発皿



蒸発皿

砂糖を盛ったり、ナッツを入れたり、
ちょっとした味見にも。
いろいろ便利な蒸発皿。

本来は理化学用途。

溶液の蒸発に用いるのだが、
うちでは豆皿として。

丸底はちょっと座りが悪いが、
そこがまた面白いし、
よく揺らぐのはお互いさまよ。


ときに蒸発したくなる気持ちをぐっと抑えて、

今日も眉間にしわ寄せコーヒーを淹れる。



2018年3月12日月曜日

耳で喰らう



耳食と言うらしい。

古い中国の言葉だそうだ。

自分の味覚でではなく、
聞いた意見や風評に流され「おいし~」と言う。

その人はその時、
口ではなく、耳でものを食べている。

これが耳食。

ましてや今は耳だけでなく、
目にも情報かしましい時代。

たまには目を閉じ、
耳を塞いで自分の舌で、
ウマいマズいを食べてみよう。








2018年3月10日土曜日

古い栃の実






若き母の写真や
東欧の絵はがきなどとともに。 

50年前の荷物に紛れて出てきた栃の木の実。

旧い祖父の家を取り壊す時に見つけたものだ。


欧米では一般にアンティークとは、
100年の時を経たものを指すのであるが、

ここ日本では古来より器物は100年経つと
「つくも神」という妖怪になるとされてきた。

さて、あと50年。

この実のいく末は格調高いアンティークか、
それとも背筋も凍る妖怪か。

何はともあれ、
僕の目の黒いうちは手元に留めておきたい。

そう思うのだった。